森林インストラクター・環境カウンセラー 豊島襄の『林住日記』(旧題:フィールド・ノート):林住期という生き方
2014-06-15T20:44:30+09:00
jo-toyo
林住期を、より充実したものに!
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『林住期という生き方』 並べ替え
http://forestjo.exblog.jp/17743220/
2012-07-10T05:31:25+09:00
2012-07-10T05:31:19+09:00
2012-07-09T17:37:57+09:00
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林住期という生き方
ただこれまでのものを並び替えただけです。
次の「はじめに」から続けてご覧いただけます。]]>
『林住期という生き方』 はじめに
http://forestjo.exblog.jp/17488568/
2012-07-10T05:29:31+09:00
2012-07-10T05:29:32+09:00
2012-05-01T08:22:41+09:00
jo-toyo
林住期という生き方
『林住期の生き方』というタイトルで原稿を書き出版を目指しましたが、自分では面白いと思うのですがどの出版社も引き受けてくれません。
ということで、このブログで電子出版。これから少しずつ載せていきます。
左の欄のカテゴリー「林住期の生き方」をクリックするとバックナンバーが見られるようにしておきます。
2012/5/1
はじめに
本書は二つの目的で書きました。主な読者層は「第二の人生」(本書でいう「林住期」)にステージ入りした団塊の世代(筆者もプレ団塊世代といわれる一人)、およびステージ入りをやがて迎える予備群の方々を想定していますが、その読んでいただく方々の側からいえば大きく二つのテーマを読み取っていただきたいと思います。
団塊世代が大量に定年で迎えつつある「第二の人生」、本書ではこの第二の人生を「林住期」と「遊行期」という、いま注目を浴びつつある人生ステージ論で捉え、なかでもその「林住期」に焦点を当てて新しいコンセプトを提案することがまず一つ目の目的です。
65歳以上の高齢者が全人口の5分の1超を占める超高齢社会(65歳以上の高齢者が21%を超える社会)、そんな日本社会の中で高齢者が林住期をどう充実して、社会のお荷物になることなく健康に活き活きと過ごすことができるか、そして最終的には「遊行期」を経てどう静穏な最期を迎えられるかは、個人の生き甲斐の問題としても、社会全体の問題としても重大です。ありていにいえば、社会全体にとって年金や健康保険など高齢者社会補償の負担の問題としてもご承知の通り大議論になっています。
これまでは定年後といえば「第二の人生」あるいは「余生」などとも呼ばれていましたが、人生80年時代の今日、そんな消極的な捉え方はもはや適切ではありません。そこにより積極的に生きる意味を与えたいと思います。
くりかえしますと、こうした第二の人生の前半、本書でいえば林住期に私なりの位置づけをし、新しいコンセプトのもとでその生き方を提案するのが一つ目の目的です。
いま一つは、ちょっと大仰な話になりますが、今後の、大きく変ると思われる社会環境、地球環境の中でどう生きるべきか、それを、林住期という人生ステージ論を通して考えてみたいということです。もちろん一つ目の目的と関係することはいうまでもありません。
この度の東日本大震災と福島第一原発事故、私は大きな文明的な転換期であり、その余波をうけて生活する私たちにとってもライフスタイルの大きな転換点になるのではないかと思います。
2001・9・11のニューヨーク・貿易センタービルなどの同時多発テロがそれまでの「国家間の戦いから見えない敵との戦いへ」という、戦争というものの大転換点であったといわれますが、2011・3・11の今回の東日本大震災と福島第一原発事故は、20世紀型の人類文明の大転換点となるのでないでしょうか。何かダヴィンチコードを思わせるような、ちょうど9年と真半年という時間をおいて起こった二つの文明的な大事件・事故ですが、むしろ今回の大震災と原発事故の方が、エネルギー消費(電力)の問題といった根幹にかかわる事態だけに、より文明の転換点という意味では影響は大きいのではないか、と私は思います。
地球温暖化防止の切り札ともいわれた原子力エネルギーによる発電、それが地球温暖化にも劣らない厄災をもたらしかねない危険性をはらんでいる。もはやこれまでのような野放図な電力などエネルギーの浪費は許されなくなります。
2012年5月5日、最後の一基の北電泊原発3号機が定期検査に入り、ついに日本の原発は稼動ゼロになりました。約二ヶ月のゼロ期間を経てこのたび関西電力・大飯原発が再稼動しましたが、激しい反対運動がなされています。ほんの二年前の政府計画では新たに14基以上の原発を新設し、常時60基近くが動いているという計画とは様変わりです。もはやそのような未来図はとても描けません。
大きく世界に目を広げてみても、今回の福島原発の事故を契機に、原発の建設には大幅なブレーキがかかり始めています。ドイツ、スイスの脱原発宣言に続いてイタリアでは国民投票で原発全廃が決定されました。
かといって火力発電など化石エネルギーへの回帰は地球温暖化の点からも難しい。また太陽光、風力、バイオマスなどの再生可能なエネルギーによる発電も、原子力や火力にとって代わるにはまだまだ力不足。人類はエネルギーの面から曲り角に立っているといわなければなりません。つまりは、無際限なエネルギー消費に支えられてきた私たちの20世紀型のライフスタイルを変えざるを得ないところに来ているのです。そんな意味からも一種の文明の転換点にさしかかっているのではないか、そう思うわけです。
そうした中で、私たちはどのようなライフスタイルを目指すべきか? 私はこれまでも環境カウンセラーや森林インストラクターという立場からいろいろな提案もしてきましたが(『ビジネスマンのためのエコロジー基礎講座 森林入門』八坂書房)、本書ではそれを、これからの日本で大量の人がそのステージ入りを迎える「林住期」の問題として考えてみたいと思います。
社会の第一線を退き、もうそれほど直接的には経済活動、生産活動にかかわらなくてもいい私たち「林住期」の世代、私たちこそその新しいライフスタイルを率先することができる、したい、しなければならないとの想いからです。またその人口構成の大量さゆえに、それが日本社会に与える影響も決して小さくないからです。
いま地球や人類文明の「持続可能性(サスティナビリティ)」ということがキーワードになっています。ひらたくいえば、このままのエネルギーや物資の大量消費を続けていて、私たちの孫やひ孫の世代は無事に文明的・文化的な生活を続けていけるのか? 私たち現世代の、物質的豊かさを求めるあまりにも野放図な生活が資源枯渇や地球温暖化、生物多様性の減少などをもたらし、孫・ひ孫たちの将来世代の豊かな生活の可能性を奪っているのではないか?
かわいい孫やひ孫たちに地球や社会をそのうちに引き継いでいかなくてはならない私たちの世代、そのような視点から「孫・ひ孫たちに豊かさを残してやれる生き方がどうできるか?」というテーマのもと、森林インストラクター、環境カウンセラーの立場から私なりに新しい生き方の提案をしたいと思います。]]>
『林住期という生き方』 第一章「林住期とは?」①
http://forestjo.exblog.jp/17493273/
2012-07-10T05:29:12+09:00
2012-07-10T05:29:06+09:00
2012-05-02T13:33:22+09:00
jo-toyo
林住期という生き方
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・人生二ステージ論から四ステージ論へ
人生第三ステージ「林住期」、この「林住期」の言葉の由来や意味するところは、のちにくわしく触れていきますが、といいますか、「はじめに」でもいったように、それにどう今の時代にマッチする意味づけをするかがこの本の中心コンセプトになりますが、昨今の日本でこの言葉が徐々に注目を浴びつつあります。
この「林住期」の言葉の由来は古代インドにありますが、そこでは人生ステージを四つに分けていました。
「四住期」説といいますが、勉学と修行の第一ステージ「学生期(がくしょうき)」、職業につき、家庭を持つ第二ステージ「家住期(かじゅうき)」、社会の第一線から退き、来し方を静かに振りかえる第三ステージ「林住期(りんじゅうき)」、最後は、いよいよ人生からの静穏な退出に備える第四ステージ「遊行期(ゆぎょうき)」の四段階です。
これまでの日本では人生ステージはおおむね二段階で分けられていました。定年など社会第一線からのリタイヤまでが「第一の人生」、リタイヤ後が「第二の人生」、あるいは「余生」。終戦後までの人生50年余時代はそれで良かったのかもしれません。「第一の人生」が終われば、それほどの間をおくことなく人生を終える人も多く、終えなくとも、後のせいぜい数年から10年は「第二の人生」、「余生」でも良かった。
しかし人生80年時代の現代日本、それではあまりに大雑把過ぎます。
たとえば作家の高任和夫氏も『定年後―「もう一つの人生」への案内』(岩波書店)という本の中でこういっています。
「定年を境にして人生を二分して論じる時代は終わった。・・・さんざん言われていることだが、高齢化がすすみ、かりに60歳で無事定年になっても、たっぷり時間が残されているということがある。なんでもサラリーマンのときの労働時間と、60歳以降の自由時間とは、ほぼおなじらしい」
そして定年前の「第一の人生」、定年後の「第二の人生」の二分法ではなく、もっと細かな分け方の必要性から「林住期」を含む、上の四住期説の分け方に言及し、それに初めて出会った時は「目からうろこが落ちる思いがした」と言っています。
私はそれ以上に、「第二の人生」や「余生」といった無味乾燥な二段階論に対して四段階論は、生き方の指針となる、人生に対する意味深い哲学があるように思います。さすがにヒンズー教や仏教を生み出した古代インドの人生ステージ論です。
なかでも、とくに第三ステージ「林住期」が脚光をあびていることは先に指摘した通りです。]]>
『林住期という生き方』 第一章「林住期とは?」④
http://forestjo.exblog.jp/17507340/
2012-07-10T05:29:00+09:00
2014-06-15T20:44:30+09:00
2012-05-06T08:53:11+09:00
jo-toyo
林住期という生き方
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・私と「林住期」
かくいう筆者は、どのように林住期を迎えたか? その、家住期との「断絶」を乗り越えたか?
私は一般の人より一足早く「林住期」に片足を踏み入れたといえるかもしれません。それは、55歳で会社生活を半リタイヤしたからです。
定年まであと5年を残した55歳の時、会社からリストラ策が発表されました。その時点から5年間、会社に1日も出なくてもいい、当時の私の年収の半分を毎年支給する、また厚生年金、健康保険を会社も負担する、五年後の時点で退職金も支払う、というあり難い?休職制度でした。
私は早速みずから手を挙げました。当時はまだ林住期などという言葉を知りませんでしたから、第一の人生から第二の人生への軟着陸に好都合だと考えました。 ちょうど、コンサルタント会社をやっていた小中高校時代の友人二人から「一緒にやらないか」との誘いも受けていて、それもきっかけになりました。
その後、友人のコンサルタント会社を手伝いながら会社時代のマーケティング関連の問題意識をまとめる論文、著作(『解釈主義的ブランド論』白桃書房 2003)などをものしたり、といった「家住期」を半分、好きな野山歩き、自然や森林の勉強といった「林住期」が半分の生活でした。
そして、休職のまま定年退職を迎えた60歳で「森林インストラクター」(農水省・環境省登録事業)、「森林活動ガイド」の資格を取り、またその後「環境カウンセラー」(環境大臣認定)の資格も得ました。より本格的に「林住期」に足を踏み入れたといえるかもしれません。 「林住期」と「森林」、あまりに語呂が合いすぎています。しかしそれは単なる偶然でしかありません。好きなことをやっていたら、森林がたまたま「林住期」の中心になっていたにすぎません。
考えてみれば、私の来し方は「学生期」が文学部大学院・哲学研究科、「家住期」が民間会社でマーケティング関連、そして「林住期」が森林や環境。(「遊行期」はどうなるかわかりません) なんとも見事なステージの「断絶」、ぶつ切れの不連続、無駄な回り道ともいえる半生です。これまでの三ステージのテーマの分野がまったく違っているという点では、あるいは多くの方より一層の「断絶」人生かもしれません。
みずからも特捜検事からボランティア活動の分野に転進した経験を持つ堀田力氏も著者の一人である森村誠一、堀田力著『60歳からの「生きる意味」』では、ゴーギャンがエリート証券マンから画家に転進し、シュバイツアーが哲学者から医者に転じて僻地に献身したように「前身とはまったく別の人生を歩むような生き方が、第三期の人生として理想的ではあるまいか」と、人生二毛作、三毛作を推奨していますが、私の場合はそれほど粋がれることではありません。
一面悔恨にさいなまれますが、まあそれなりに好きなことをやっていたらこうなった! 仕方がないか!の心境です。時々友人などに冗談交じりで話します。「もう一度、人生がやり直せるならば、学生期から植物や森林に関係したかった!」
もともと最もやりたいことだったのかもしれませんし、今がそれなりにいちばん自分になったといえるかもしれません。また「多くのしがらみから離れてやりたいことをやる」という意味では、先の著者たちの林住期の捉え方に合致しているのかもしれません。
おかげさまでいい歳をして知人、友人などからも「風の又三郎」などと揶揄されながらも野山歩き、ボランティア、インタープリター活動など日々忙しく動き回っています。また先の資格などに関連した多くの団体に属し、古い学友、会社人脈などのほか人的ネットワークなども豊かになりました。]]>
『林住期という生き方』 第一章「林住期とは?」②
http://forestjo.exblog.jp/17499661/
2012-07-10T05:28:48+09:00
2012-07-10T05:28:42+09:00
2012-05-04T04:28:26+09:00
jo-toyo
林住期という生き方
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・マヌ法典と「四住期」説
ところで前回に述べた四住期説。古代インドにその源があるといいましたが、くわしくはその原典は古代インドのヒンズー教の「マヌの法典」にあります。原典から、それぞれの「住期」について拾い書きしてみましょう(岩波文庫)。
学生期
「入門(の儀式)を行いたる後、師は先づ第一に(学生に)身体の潔斎、作法、聖火の礼拝、及び(朝夕の)薄明時の勤行(の諸規則)を教うべし」
家住期
「人生の最初の4分の1を、師のもとで過ごしたる後、バラモンは結婚して、(その生涯の)第二の4分の1を、家に住すべし」「生計のみ支ふるために、非難する所なき、己の職業に従事して、肉体を(不当に)苦しむることなく、財を積むべし」
林住期(林棲期ともいう)
「家住者、(顔に)皺より、(毛髪)灰色となり、その子に子息を見るに至るならば、その時、彼は森林に赴くべし」「耕作による全ての食物、及び彼のすべての財産を捨て、その妻を子に託し、或いはこれを伴いて森林に赴くべし」「乾地、或いは水中に生じたる野菜・花・根・果実、浄き樹木に生じたるもの、及び森林に生ずる果実より抽出したる油を食すべし」「或は決然として、東北の方向へ直進し、水と空気にて生活しつつ、身体の倒るるまで歩むべし」
遊行期
「されど、かくして人生の第三の部分を森林に過ごしたる後は、(世事に対するあらゆる)執着を捨てて、その生涯の第四の部分を遊行に過ごすべし」「死を希ふことなく、生を求むること勿れ。下僕がその報酬を待つが如く、時機をのみ待つべし」
といっても、その古代インドではおそらく寿命も短くこのように四つのステージを生き切ることができるのは稀で、多くの人にとっては本当に渇仰すべき「理想」であったかもしれません。 しかし、現代日本の人生80年時代、ほとんどの人はこのステージを踏むことができる、いやもっと適切には踏まざるを得ないというべきかもしれません。リタイヤ後のあまりにも長い人生ステージを好むと好まざるを得ず、過ごさなければならないからです。
先に現役時代の労働時間と60歳定年退職後の自由時間がほぼ同じという話に触れましたが、それは次のような計算によります(加藤仁『定年後の8万時間に挑む』文春文庫)。労働時間が、2000時間(年間労働時間)×40年=8万時間。そして自由時間が、睡眠、食事、入浴などの日々の必要時間を1日24時間から引いた余暇時間が約11時間、そして80歳まで生きるとすれば、11時間×365日×20年間=8万時間。
しかもそれは平均寿命の話であって人によっては90歳、100歳の長寿を全うする人もいます。今の日本では100歳以上の人が5万人近くいらっしゃるということです。100歳まで生きるとすると、現役時代の労働時間8万時間の2倍の16万時間となります。
それはともかく平均寿命でも8万時間もある長さを持て余している人も多いようです。たとえば「粗大ゴミ」「濡れ落ち葉」「ワシも族」など特に定年後の男性を揶揄する言葉がそれを表しています。生き甲斐を失って欝になる人も多く、「老人性デプレッション」などという病名がつけられているほどです。
もちろん古代インドと今日の日本は時代が違い、社会も制度も違いますが、その四住期説の示唆するところは大きいと思われます。 現代においてどのように解釈できるでしょうか?]]>
『林住期という生き方』 第一章「林住期とは?」③
http://forestjo.exblog.jp/17499678/
2012-07-10T05:28:26+09:00
2012-07-10T05:28:20+09:00
2012-05-04T04:48:29+09:00
jo-toyo
林住期という生き方
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・静かに浸透しつつある「林住期」
近年、この四住期説、なかでも第三ステージ「林住期」という言葉が、静かに浸透しつつあります。たとえばネットで「林住期」を検索してみても、驚くほど多くヒットします(google検索で1億5400万件2012.5.5現在)。
それは、他の住期が過去のどの時代でもそれなりにステージとして存在していたのに対し、「林住期」が人生80年時代の、世界一の長寿国日本の今日、個人にとっても社会にとっても人類史上はじめて大きな存在になりはじめたこと、あわせてその考え方自体の今日性によると思います。
本などの著作では私の知るかぎりでは、女性評論家の桐島洋子さんが1989年に『林住期が始まる 華やぎの午後のために』という本を出し、初めてこの言葉を使い始めたようです。その後、宗教学者・山折哲雄さんや、出版社の社長職をなげうってフィリピンの島をまるごと買い取って移住した崎山克彦さんが著作の中で使ってきました。また近年では作家の五木寛之さんが、そのものずばり『林住期』という本を出版しました。
参考に、その著作一覧を挙げてみますと。
桐島洋子著『林住期が始まる 華やぎの午後のために』(海竜社 1989)
桐島洋子著『林住期ノート 人生の秋を生きる』(世界文化社 1990)
桐島洋子著『刻(とき)のしずく 続・林住期ノート』(世界文化社 1991)
桐島洋子著『林住期を愉しむ 水のように風のように』(海竜社 1998)
山折哲雄編『「林住期」を生きる 仕事や家を離れて第三のライフステージへ』(太郎次郎社 2000)
崎山克彦著『カオハガンからの贈りもの』(海竜社 2004)
五木寛之著『林住期』(幻冬社 2007)
その著者たちが四住期、なかでも「林住期」をどう解釈し、人生ステージとして位置づけているか? 上の著作の主なものから、それに関係する言葉をまず拾ってみましょう。
「春は勉学に励む学生期、夏は懸命に働き家庭を築く家住期、秋は一線を退きゆとりを楽しむ林住期、そして冬は安らかな死に備える遊行期・・・・・。人生の秋というと、とかく寂しげなイメージで語られがちだが、秋こそは一番豊かな収穫の季節なのだから、ここでよく熟れた果実を味わい尽くしてこそ、心残りなく淡々と葉を落として澄みきった冬を迎えることができる」(桐島洋子『林住期を愉しむ』)
「自然に向き直り、来し方行く末などに想いを致し、人生の本質について心を澄まそうというのが林住期」’桐島洋子『林住期が始まる』)
「仕事や家から離れて自由な豊穣の時間へ」(山折哲雄『「林住期」を生きる』)
「『林住期』とは、社会人としての務めを終えたあと、すべての人が迎える、もっとも輝かしい「第三の人生」である。・・・・・『林住期』をむなしく終えた人には、むなしい死が待ちかまえているだけだろう」(五木寛之『林住期』)
そして最後に崎山克彦氏は、「林住期」を「感謝して生きる『第二の人生』」としています。
「まずは、ゆっくりと経過する、たっぷりとある時間を使って、今までに学んだこと、経験したことを振り返り、『人生とは何なのか』をゆっくり考える。そして、その経験と知恵を使って、できるだけ、『自分が経てきた「家住期」の社会』に貢献をしていく」(崎山克彦『カオハガンからの贈りもの』)
それらに共通するところは、多くのしがらみから離れて自分のやりたいことをやり、自分らしく生きることのできる、人生においてもっとも輝かしい収穫のとき、ということのようです。その他では、「人生の本質について心を澄ます」(桐島洋子、崎山克彦)、「静穏な死への準備期である遊行期の前段階」(桐島洋子、五木寛之)といった捉え方もあるようです。
「強いられる」勉学の学生期(春)、家庭的にも社会的にも責任の重い家住期(夏)という肩に重荷のかかる二つの住期や、社会、係累からも離れてたった一人の静穏な死への準備の遊行期(冬)に対して、ゆとりの中で来し方を振り返りながら実りの秋を楽しむ「林住期」という捉え方は共通のようです。
しかしこれら著述の所説は、大きな示唆に富むもののいま一つ私たち一般人にとって身近かではない、特殊な林住期のように思われます。それは、最後の、サラリーマンを自ら卒業して林住期入りした崎山さんを除いてみんな作家や研究者といった人たちであることによると思われます。その人たちの林住期は、あえていえば家住期の連続です。著述業や研究者を続けながらの林住期であり、職業や生活的にもステージが連続しています。いうならば、心境の問題であるようです。
しかし一般の多くの人にとっては、林住期は、「定年退職」などむしろ家住期からのはっきりした、好むと好まざるとにかかわらずの「断絶」が特徴です。それまでの仕事からの断絶、生活の面でもそれまでの職場を通じた付き合いなどコミュニティからの断絶、慣れない地域コミュニティなどへの新参入、そして新たな生き甲斐の模索、この生きる基盤の断絶をどう乗り越えて生き切ることができるかが、ことに一般の人にとってこの林住期の大問題です。
人生80年時代で「第二の人生」でも8万時間の自由時間を持つようになった現代日本人のありがたい一面であると同時に、どう乗り切るかが真剣に問われなければなりません。
本書では、日本人の多数を占める定年退職者などの、より一般的な林住期に焦点を当てていきたいと思います]]>
『林住期という生き方』 第一章「林住期とは?」⑤
http://forestjo.exblog.jp/17509519/
2012-07-10T05:27:21+09:00
2012-07-10T05:27:22+09:00
2012-05-06T20:23:30+09:00
jo-toyo
林住期という生き方
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・なぜ、林 住期?
前回の「私と林住期」で、「林住期」と「森林」を「たまたま好きなことをやっていたらそうなった」偶然の一致といいましたが、しかし考えてみれば「林住期と森林や環境」、それはそれで「林住期」というステージの生き方の一つとして一般化できるともいえるのではないか、少なくとも私に「林住期」を語る資格があるのではないか、とそう思うようになりました。
その理由を、さしあたり先のマヌ法典に立ち返り、次のような疑問から出発して考えてみましょう。
四住期説の中で、この人生第三ステージが、なぜ 林 住期なのでしょうか? 「林に住む」なのでしょうか? 古代インドのヒンズー語で「林住期」は「ヴァーナプラスタ」という原語だとのことですが、文字通り「森に住む」の意味のようです。先のマヌ法典でも「家住期の後は、森林に赴くべし」としていました。 青雲の志を抱いて勉学に励む第一期・学生期、社会の第一線で闘う第二期・家住期、この二つの「頑張る」人生ステージからやや退き、来し方を振りかえるとともに人生の本質を求めながら次の「遊行期」への準備のための第三期・林住期、このステージに「森や林」の語を当てた古代インド人の、そのココロはどこにあったのでしょうか?
もともと東洋人は森林や自然に対して親和的であるともいわれます。たとえばそれは東洋と西洋の自然観、世界観や、それが根底にある宗教の対比で語られます。
自然を人間と対立するものではなく、万物と同じ人間もその一員とみなす東洋に対し、自然を人間とは隔絶された対象として操作・利用するものとみなす西洋の自然観の対比、また宗教観では、「山川草木悉有仏性」に象徴されるように自然のあらゆるものに神を見出す汎神論的な東洋の宗教と、天にまします唯一神が万物を創造し、人間のみに神の意思に沿う努力が許されているとされる西洋の宗教の対比。
そしてそれは、根底は両者の育まれた自然のあり様から来ているといいます。たとえば鈴木秀夫著『森林の思考・砂漠の思考』(NHKブックス)のように、東洋の仏教を中心とする世界観を「森林の思考」、西洋のキリスト教やその源流のユダヤ教のそれを「砂漠の思考」とするのが一般的です。
「森林には生が充ち満ちている。生への道か滅への道か思いわずらう必要がない。生と滅を区別する必要がない。人間が、これだと思った道から迷うことによって、かえって桃源郷を発見する」、そのような中では自然万物は人間に敵対するものではなく恵みを与えてくれるもの、あるいは崇められるものとなり汎神教の世界に通じる。
一方、砂漠の思考では、「砂漠では、ある一つの道が水場に至る道であるか否かどちらかを決断しなければならない。その道が生への道であると判断することは、他の道は滅への道であると判断することである」、そのような無生命の砂漠の中では生死の決断をさせてくれるものは天の星か、あるいは天にまします神しかなく、おのずから一神教の世界に通じる。
たとえば、この、森林の宗教とそうでないそれとのもっともわかりやすい象徴的な例は、森に埋もれた日本の神社や寺院と、街の真ん中に石造りで天に向かって聳えるヨーロッパのキリスト教会を見ればいいのかもしれません。
そして、これは世界の根本的な成り立ちの物語にまで当てはまるといいます。恵みに満ちた豊穣の森は季節の移り変わりによって姿を大きく変え、その中では生命のあるものたちの死と再生のドラマが営々と繰り返される。そこで生まれるのは命が永遠に流転する輪廻転生の物語。
一方、生あるものも死せば白骨となり二度と甦らない、そのような砂漠の中では神が無から世界の有のすべてを創生したという天地創造の物語となり、そこでは、時間が始まりから終末に向かって一方向に流れる。
もともと森林、ひいては自然に近しい東洋人ですが、「ゆとりを楽しみ、人生の本質に心を澄ます」人生第三期の「林住期」、そして静謐な死への準備期である遊行期の前段階としての「林住期」、このステージに「林」の語を当てた古代インド人の洞察はあるいは当然ともいえるかもしれませんが、やはりよく考えてみればさすがです。
まさにそのような根底的な世界観をもたらした「森や林の自然に親しむ―林に住む」こそ、そのようなDNAを持つ東洋人である私たちには、桐島洋子さんのいう「自然に向き直り、人生の本質について心を澄ます」林住期に最適なあり方であるように思われます。
私は本書では、この「森や林の自然に親しむ―林に住む」を、リタイヤ後の生き方の一つとして今日的意味づけをしてみたいと思います。もちろん、いくらか隠遁的ともとれる(私はそうは思いませんが)「林に住む」ではなく、あくまで「実社会のなかでアクティブに生きる」に生き甲斐を見出す人もおられることでしょうが、そうした価値観を持つ人にでもたまには「ゆとりの中で来し方を振り返る人生第三ステージ」にふさわしい息抜きとしてお薦めできるのではないかと思います。
そこには、「はじめに」でも述べた本書の目的の二つ、豊穣の秋に生きる喜びを感じながら遊行期に備える、新しい林住期コンセプトとともに、20世紀型の、自然から隔離された物質文明的生き方から、自然との共生的ライフスタイルへの転換の大切さへの重要なメッセージがあるように思われます。大津波や原発事故で強いられる新しい地球環境、社会環境のもとでの世紀的ライフスタイル転換への今日的なメッセージが秘められているのではないでしょうか?
本章では「林住期とは?」ということで、言葉の由来、今日的な意味合いについて考えてきました。
続いて次章以下では、その新しいコンセプトのもとでの、あるべき、ありたい生き方を具体的に考えてみたいと思います。
私自身、人生「四住期説」の、この第三ステージ「林住期」の真っ只中ですが、自分自身の生き方として目指していると同時に「人生第三ステージ『林住期』をより充実したものに!」を合言葉に「林住舎」(http://rinjujuku.eco.coocan.jp/)というサイトを立ち上げ、その中で四つの生き方の提案をさせていただいています。ホームページから拾っておきますと。
1.健康に充実して生きる 2.自立して生きる 3.奉仕しながら生きる
4.環境にやさしく生きる
以下それらも踏まえながら、大きく括り「はじめに」でも示した本書の二つの目的(1)「林住期―豊穣の秋を求めて」のタイトルで第二章を、(2)新しい地球・社会環境下での「自然との共生的なライフスタイルを求めて」のタイトルで第三章を設け、二つの側面から「林住期という生き方」を考えていきます。
(第一章終わり)]]>
『林住期という生き方』 第二章「豊穣の秋を求めて」①
http://forestjo.exblog.jp/17520296/
2012-07-10T05:26:51+09:00
2012-07-10T05:26:51+09:00
2012-05-09T14:38:06+09:00
jo-toyo
林住期という生き方
はじめにも言いましたように、『林住期という生き方』というタイトルで原稿を書き出版を目指しましたが、どの出版社も引き受けてくれません。
ということで、このブログで電子出版。これから第二章です。
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林住期の生き方を考える話の順番として、「豊穣の秋」のベース、あるいは前提条件ともいえる二つの提案から入っていきましょう。
自立して生きる
第一章でもいったように一般の人にとって定年退職など現役を退くことは、大きな生活基盤の「断絶」です。その断絶に加えて、もう一つの危機が忍び寄ります。
定年をきっかけとした熟年離婚、あるいは実際には離婚までには至らなくとも家庭内別居が増えているといいます。
せっかく豊穣の秋の林住期を迎えても、孤立ではちょっと寂しすぎます。その離婚や家庭内別居の原因の多くは、ひとり立ちできず妻にあまりに寄りかかる夫側にあるようです。「粗大ゴミ」「濡れ落ち葉」「ワシモ族」など揶揄される言葉がそれを証しています。それまでは少なくともウィークデイの昼間は好きなように自由を満喫してきた自分の城に、ある日から粗大ゴミに闖入されて毎日のように居座られ、なおかつ自由を奪われる妻。高校同級生の女性数人から直接聞いた話ですが、夫の退職後、毎日々々夫の昼食の準備をしなければならないことほど苦痛は無い、こう言い切ります。我々男性にはちょっと解らない事情です。
夫が定年を迎えた妻に「主人在宅ストレス症候群」という心身の不調を訴える例が増えているといいます。
それまでの「家住期」のように「私稼ぐ人、貴女家を守る人」の役割は終わりました。過度に依り合わず、家事などもシェアーする。そうした第三の人生ステージの生き方を求めて、夫婦それぞれができるだけ自立して生きる術を身につけたいもの、いつか一人になる日のあることにも備えて。
夫婦円満の要諦は、不即不離。べったりくっつかず、依りかからず夫婦それぞれが自分の世界を持って自立することにあるのではないでしょうか? もちろん趣味などで同じ世界が持てれば、それに超したことはないかもしれませんが。
私も、最近「男の料理教室」に通い始めました。少しでも家事ができ始めると、「生きていく自信」が湧いてきます。妻が旅行などで留守をしても、あわてることがありません。
しかしせっかく都合よく夫婦それぞれ自立しても、人とのつき合いもあまりなく孤立で「膝をかかえて一日を過ごす」ではこれまた寂しすぎます。「人は一人では生きていけない」、趣味や、地域コミュニティなどの仲間を持つことができれば最高です。
ですが、これも男性は苦手。
家住期は会社などのつき合いだけで、地域は寝に帰るだけ、肩書き付きのつき合いはできるが、肩書き無しのつき合いは苦手。一方、女性は地域コミュニティや子どもの学校関係のつき合いも多いケースが一般的です。
そのような退職男性の地域コミュニティや趣味サークルへの参入のゲートとして生涯教育と称して多くの自治体をはじめ大学、各種団体などでも講座、講習が行なわれています。「それでいいのか、蕎麦打ち男」(残間里江子)などという揶揄の言葉もありますが、「蕎麦打ち」、「陶芸」、「俳句」など「こねる」シリーズも好評のようです。
しかし、8万時間、あるいは人によってはそれに倍する長い時間を過ごすには生半可な趣味では済まないかもしれません。そのとんでもなく長い時間を過ごすにはよほど自分に合った、本当に好きになれる趣味を見つけ出さなければなりません。羨ましい林住期を送っている?大橋巨泉氏は、第二の人生に必要なのは、「健康と、それから二つの趣味と多少のお金」といっていますが、本当に好きな趣味でも「一つでは飽きる」などと贅沢なことをいっています。
もちろんそうした趣味サークルなどの生涯教育プログラムへの参加も足がかりになりますが、この面では、なんらかの資格取得なども有効です。私も森林インストラクターや環境カウンセラーの関係で様々な団体に参加でき、大いに人的ネットワークも拡がりました。もともと意思を同じくする集まりであるだけにネットワークも安定強固です。
後ほど林住期の中心コンセプトとして「自然に向かう、迎えられる」を推奨していきますが、もちろんそれもお薦めですが、それに関係しなくともいずれにしても林住期になっても「膝をかかえて一日を過ごす」のではなく世界を広げアクティブに行動する、それが自立につながり、豊穣の秋の実りを手にする前提条件であることは間違いありません。
NHK「ラジオ深夜便」の「明日への言葉」出演の多湖輝さんからの受け売りですが、人は歳をとり第一線を退くとますます「きょういく」と「きょうよう」が必要になる。といっても「教育」と「教養」ではありません。「今日行くところ」と「今日やらなければならない用事」です。要は「膝をかかえて一日を過ごす」ことにならずに済むようになることです。
これも我田引水かもしれませんが、私は55歳から準備をして取得した資格などを通じて新しい世界を広げてきました。日々それらのイベントのかち合いでスケジュール調整に苦労するほどです。
ちなみに、資格や趣味などの関係で私の加入している団体を例示してみますと、
「森づくり集団『栞』」(http://mori-shiori.sakura.ne.jp/) 、「嬬恋軽井沢自然倶楽部」(http://tsumagoi.creativekei.com/)、「自由時間倶楽部」(http://www.sfk21.gr.jp/jjc/) 、「埼玉森林インストラクター会」(http://saitamanomori.net/)、「(財)埼玉県生態系保護協会」(http://www.ecosys.or.jp/eco-saitama/)、NPO東上まちづくりフォーラム「ビジネス助っ人隊」(http://www.suketto.biz/)、「とくとく市民大学」(http://tokutoku.tojocity.org/)など。
まず「林住期-豊穣の秋をもとめて」の一つ目として「自立して生きる」を提案してきましたが、「自立」は「孤立」ではありません。連れ合いや家族からも自立する、つまりは「家住期」の役割や義務からも開放され、また逆に自分自身も家族に依存することからもできるだけ独り立ちする。しかしそうなっても「膝をかかえて一日過ごす」では「豊穣の秋」ではありません。できるだけ。「きょういく」と「きょうよう」を身につけるべく、世間を拡げていきたいもの。
できれば、林住期に入ってあわてるのではなく、長い「第二の人生」―現役時代の就業時間と同じ8万時間、あるいはそれ以上という長い時間―を過ごさざるを得ないことをあらかじめ肝に銘じ、そうならないよう家住期のうちから準備しておくことも必要かもしれません。]]>
『林住期という生き方』 第二章「豊穣の秋を求めて」②
http://forestjo.exblog.jp/17541814/
2012-07-10T05:26:29+09:00
2012-07-10T05:26:23+09:00
2012-05-15T09:10:22+09:00
jo-toyo
林住期という生き方
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奉仕して生きる
「林住期―豊穣の秋を求めて」二つ目の提案です。
第一章で紹介したように、「林住期」コンセプトを広めた一人・崎山克彦さんは、林住期の生き方を「それまでの経験と知恵を使って、できるだけ『自分が経てきた〔家住期〕の社会』に貢献をしていく」としています。 もちろん、林住期といえども働いていけないことはありません。むしろいわゆる定年年齢を過ぎても働けることは喜ばしいことです。
しかし同じ働くとしても、そこにはおのずから「家住期」とは違った働き方があるはず。それは端的にいえば「養うために働く、食うために働く、ではなく生き甲斐で(楽しんで)働く、あるいはお返しで働く」ではないでしょうか? 今の日本では多くの若者が失業で苦しんでいます。その若者と職場を取り合いするのではなく、補完しあえる働き方、そうできれば理想的です。長い家住期に獲得してきた知識、ノウハウをそのままお蔵入りにしてしまうのは、社会にとっても大きな損失であるかもしれません。できるだけ還元したいものです。
それも「奉仕して生きる」の一つでしょうが、文字通りの奉仕―ボランティアも「林住期」の生き方として位置づけたいもの。すでに多くの「林住期」の方たちが豊かな経験を生かしたボランティアに貢献しています。
いま国も地方自治体も膨大な借金で、だんだん財政出動による公共社会の維持は困難になってきています。つまり財政出動など「公」による社会の維持は手が届きにくくなっています。それを補うのが「共」だといわれています。私たち林住期のものも社会のお荷物になるのではなく、逆に「共助」の精神で社会に貢献していく、素晴らしいことではないでしょうか? 自分自身の生き甲斐にも通じ、社会のお役にも立てる。林住期の生き方としてぴったりです。
こうした動きは最近では政府自体が「新しい公共」という概念で唱えるようになっているのは、ご存知の通りです。何か政府の責任逃れの身勝手さの感なきにしもあらずですが、平成10年に「特定非営利活動促進法」いわゆる「NPO法」が制定されたのも、そうした動きの一つでしょう。その後ボランティアを目的とする多くのNPOが誕生しシニアたちも活躍しています。
私も、前項でも紹介しましたがNPOのほか森づくりボランティア集団に属し、月に一日、所沢市の雑木林で林の手入れをしています。また群馬県草津町の森づくりボランティアも最近始めました。もともと好きだったこともありますが、他のどんな遊びよりも作業自体を楽しんでいます。林の中での昼食のオムスビもおいしく、気の合う仲間との語らいも楽しいもの。この作業で雑木林が回復し、後世の好ましい地域環境の保全になにがしかでも貢献できれば、これに優る喜びもありません。私たちの森林ボランティア作業にたまには未経験者も誘っていますが、病みつきになる人も多くいます。
このほか地域生態系を守るための外来植物防除のボランティア活動も進めています。
近年、多くの、金融機関や企業などでも、社会貢献活動として森づくりに力を入れ、従業員や一般の人々を対象に森林ボランティア活動を募集し、活況を呈しているようです。
私は、森林ボランティアは、レクリエーション的な楽しみ、健康獲得に加え、後の「かわいい孫・ひ孫のために環境問題を考える」で述べる環境保全活動にもつながり、林住期の生き方として一石三鳥ではないかと考えています。私たち森林インストラクターは、一般の方に安全な森林作業の指導をすることも一つの役割です。
大震災以来三度にわたり、その森づくり集団の仲間などと三陸の災害ボランティアに行ってきましたが、あらゆる地域から男女を問わず多くのシニアたちが来ていました。やはり誰かのお役に立つということは、嬉しいものです。達成感もいっそうです
シニアも多く活躍するボランティアの活動領域では、介護など社会福祉系、生涯学習などの教育・文化・スポーツ系、国際交流・協力系、町づくりなどの地域社会系、環境保全系、保健医療系など多岐にわたっており、多くの関係書も世に出ています。
全国市区町村にはボランティアセンターがあり、ボランティア情報の収集と発信、ボランティアコーディネート業務、ボランティアの情報交換の場として機能しています。
またネットの世界でも、ボランティアリンク(http://volunteer.lantecweb.net/)、NHK「ボラネット」(http://www.nhk.or.jp/nhkvnet/)、YAHOOボランティア(http://volunteer.yahoo.co.jp/)などを覗いてみれば、全国規模で多くのボランティア団体やその活動実態が紹介されています。
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『林住期という生き方』 第二章「豊穣の秋を求めて」③
http://forestjo.exblog.jp/17554270/
2012-07-10T05:25:41+09:00
2012-07-10T05:25:39+09:00
2012-05-18T17:12:28+09:00
jo-toyo
林住期という生き方
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健康に充実して生きる
「豊穣の秋を求めて」の、林住期コンセプトの中心となる三つ目の提案です。この項はやや長くなるため数回にわたります。
命あってのモノダネ、健康であっての生き甲斐。健全な精神は健全な肉体に宿る。いうまでもありません。これからの人生第三ステージも基本は健康です。そして特に老後の健康は足から。
近年、シニアの方も多く本格的な山登りなどでも見かけられるようになりましたが、そのような趣味、元気のある方はもちろんそれはそれで結構ですが、そこまで本格的に「山に入る」必要もありません。ここでは一般に野山歩き―ハイキング、ヴァンデルング(森歩き)といった、もっと身近な自然に浸る体験をまずはお薦めします。自然相手に体を使うという意味では、これもシニアに願望の強い、農作業、いわゆる土いじりなども加えてもいいかもしれません。
・林住期は「ふるさと」に帰ろう
人は歳をとると、もともと「ふるさと回帰願望」があるようです。意識動向調査などでも熟年者の「田舎暮らし願望」、「Uターン願望」も強いようです。ここでいう「ふるさと」や「田舎」が、いわゆる故郷―自分が生まれ育った地である必要はありません。もちろんそれも含みますが、そのような故郷を持たない人も多いでしょう。ここでは一般に自然に恵まれた環境といった意味で考えていただいても結構です。
その「ふるさと願望」は、すぐ後にも見るようにヒトのもともとのふるさとが森林など自然の中にあったということにもっとも深い理由があるものと思われますが、加えてそうした「ふるさと」から引き離されて西洋の圧倒的な影響下にある現代の物質文明に囲まれた都市での、ヒトとしての、いわば「板につかない」生活を強いられてきたところにあるように思われます。ゆとりを楽しむ林住期に「ふるさと」を求めたくなるのは、むべなるかなではないでしょうか。
ヒトはヒトとなってそのほとんどを森など自然の中で過してきました。ヒトとなる前の何千万年の霊長類の時代も「森の動物」でした。
ちょっと脇道に逸れる感なきにしもあらずかもしれませんが、それは私たちヒトも含む霊長類の身体のつくりを見ると解ります。
まずは掌のつくりです。爪は、他の哺乳類のように鈎爪ではなく平爪です。さらに大きな特徴は、霊長類だけが親指と他の指が向き合って物がつかめるようになっています(「母指対向性」という)。これは森で木につかまるために進化してきました。
また目のつき方も独特です。他の動物は犬などを見てもわかるようにほとんど目が顔の両側に分かれてついています。獲物を捜すためや敵から逃れるためには視野が広い方がいいからです。それに対して霊長類の目は顔の前面に二つ並んでついている。木の上で生活するうえで必須です。両目の焦点を合わせ、ものの距離感がわからないと枝がつかめず「サルも木から落ち」ます。
最後に、ヒトの最大の特徴である二本足歩行につながる身体が一直線伸びるという身体のつくりも樹上生活から生まれました。手で木にぶら下がるところから一直線に伸びるようになりました。
ことほどさように「ヒトは森の動物」。そこを永年のふるさとにした深層記憶は、言葉や文字を作りだした昔の人にも影響したようです。人と森や林の関係を、たとえば「休」という漢字や「forest(森)」という英単語のなり立ちからみてみますと、それがうかがえます。前者では「人が木の横にたたずむ」ことによってやすらぎが得られるのが「休み」、後者では「やすらぎに向かう(for rest)」のが「forest(森)」となっています。自然を人間と対立的にみなす世界観をもつ西洋人も潜在的には「森」に「ふるさと」を見出すのでしょう。
森林の癒し効果を研究している宮崎良文さんは次のようにいいます。
「人間はヒトとなって500万年が経過し、現代を生きる今の人間は、その99.99%以上を自然環境下で過ごしてきた。われわれは、自然環境下において、進化という過程を経て、現代文明下に住む今の人間になった。人の体は自然対応用にできているのである。さらに1984年につくられた『テクノストレス』という言葉が代表するように、人工化は今も急速に進んでおり、気付きにくいが常に緊張を強いられるストレス状態に置かれている」(「森林医学」)
ましてやもともと自然との親和的なDNAを持つ東洋人、ひいては日本人、闘う家住期を終わり、ゆとりと癒しを求めたくなる林住期、その林住期の人たちが緑の「ふるさと」を願望するのは充分に理由のあることではないでしょうか?
先のように本当の故郷に癒しと安息を求める人、自然に囲まれた別荘などにそれを求める人、さまざまな「ふるさと回帰」の形態はあるでしょうが、ここではもっと一般的な「ふるさと」―自然に向かう、迎えられる―への回帰をお薦めしてみましょう。
(この項、次回に続く)]]>
『林住期という生き方』 第二章「豊穣の秋を求めて」④
http://forestjo.exblog.jp/17560692/
2012-07-10T05:25:06+09:00
2012-07-10T05:25:07+09:00
2012-05-20T12:31:49+09:00
jo-toyo
林住期という生き方
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・「ふるさと」の効用
野山歩きはそれ自体、足の強化や、有酸素運動としてメタボ解消など健康増進に役立つことがさしあたり第一の効用でしょう。先にもいいましたように老後の健康の基本です。それに加えてもっと幅広い心身への健康の面で、あらためて「森林セラピー(療法)」とか「森林浴」とかが話題になっています。
林野庁は、平成16年度より「森林系環境要素が人の生理的効果に及ぼす影響の解明」を続けています。
またその後、産学官連携による「森林セラピー研究会」も立ち上げました。その狙いを次のように言っています。
「森林浴がもたらすストレス・ホルモンの変化、脳活動の変化等の生理的反応を解明するとともに、音、風景、香り等の森林環境要素が人の五感に与える影響を野外・室内において実証していくこととし、それらの結果を基に、効果的な森林療法メニュー及び森林療法を可能にする最適森林環境の態様を明らかにしていく」(林野庁プレス・リリースより)
もって回ったお役所らしい言い方ですが、その取組みの中でもフィトンチッドの効果の解明も目的の一つのようです。「森林浴」といえば、即「フィトンチッド」と結びつくのは、皆さんも同じかもしれません。
「フィトンチッド」とは何でしょうか。それは一般的には「森の香り」「木の香り」などと優しく呼ばれますが、そのネーミングの原義をいえば「フィトン=植物(が)」「チッド=殺す」という物騒なものです。
植物は動物のように動くことはできません。そのために他の植物からの被圧や虫、菌類の攻撃から逃げることができず無防備のように思えます。しかしその代わりに見事な攻撃・防衛体制を持っています。驚くほど多様な化学物質を作り出し、敵を寄せ付けなかったり、場合によっては殺すことによって身を守っているのです。抗菌、殺虫、他の植物の成長抑制といった作用を起こす物質であり、まさに植物の秘密化学兵器といっていいかも知れません。むしろ動けないからこそ、そのような多彩な防御兵器を発達させてきたのでしょう。
このように積極的に化学兵器として使う、これが、原義の「フィトン=植物(が)」「チッド=殺す」の名前が生れてきた背景です。植物本体にも含まれているものですが、一般的には森の中など回りに発散する化学物質を総称して「フィトンチッド」といいます。
そのように森の中にはいろいろなフィトンチッドの秘密化学兵器が飛び交い、植物は身を守っています。しかし森に入る人間にはフィトンチッドは「兵器」としてではなく、「薬」として作用します。
よくいわれるように「毒と薬」は紙一重の関係で、大量では毒ですが、適量では薬となるものが多い。近代医薬の大半もこうした植物の「毒」から抽出されたり、それをヒントに作られています。
森林内の大気に発散されるフィトンチッドの濃度は、ppm(0.001%)のまだ千分の一のオーダー(ppb)で、数百ppbから数十ppbといいます。大気中の二酸化炭素の濃度が300ppm(0.3%)台ですから、それよりも千分の一から万分の一とはるかに薄いのです。
そのような少量(適量?)のフィトンチッドは、これまでわかっているところでも、人間にさまざまな生理的効果をもたらすということです。具体的には、ストレスを解きほぐし、やすらぎを与える副交感神経の活動を活発にする作用です。現代人は常にストレスで緊張状態を強いられ、交感神経が興奮しています。森の中にもっとも多いといわれるα-ピネンというテルペン類のフィトンチッドは、実際にこの交感神経の活動を抑え、心身にやすらぎをもたらす副交感神経を活発にするというデータが得られています。
そうしたさまざまな実験データは、たとえば宮崎良文著『森林浴はなぜ体にいいか』(文春新書)に示されています。
ちなみにフィトンチッドは、天気のよい、風のない午前中の針葉樹の中がもっとも多いということですが、それでもこんな濃度なのです。だから、蒸しかえすような匂いではなく、あるかなきかのほのかな香りにしかすぎません。
そしてその本の中には、フィトンチッド物質ばかりでなく、森林が持つ視覚、聴覚などがもたらす人間への生理的、心理的効果がさまざまな実験データとして示されています。視覚であれば森林内の緑あふれる風景、聴覚であれば小川のせせらぎや小鳥のさえずり。いずれもがそれぞれ単独でも効果をもたらしますが、実際にはフィトンチッドを含めそれらが相乗して森に入る私たちにやすらぎや癒しをもたらしてくれるようです。
(この項続く)]]>
『林住期という生き方』 第二章「豊穣の秋を求めて」⑤
http://forestjo.exblog.jp/17569373/
2012-07-10T05:24:34+09:00
2012-07-10T05:24:28+09:00
2012-05-22T12:09:29+09:00
jo-toyo
林住期という生き方
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・ガンへの免疫力を高める、・・・
森に入るとさまざまな要因が私たちにやすらぎや癒しをもたらしてくれる。
それだけではありません。林野庁が(社)森林リクリエーション協会に委託したプロジェクトでは、森林での適度な運動により、
・免疫機能を有するナチュラル・キラー(NK)細胞の活性が有意に上昇
・ヒトリンパ細胞内の抗がんたんぱく質のレベルを増加させる
・ストレス・ホルモンである唾液中のコルチゾールが有意に減少
といった研究結果が得られたとのことです。
つまりはガンへの免疫効果もあることがわかりました。しかも森に入った一ヵ月後にも効果は残るといいます。
しかし、それほど「科学的」裏付けを待つ必要もないかもしれません。なにはともあれ、私たちが森林に入ってリフレッシュするのは体験的にも間違いのないところではないでしょうか。私自身は、森の空気を一日でもなんらか吸わないと元気がでないといっても過言ではありません。
このような生理・心理への癒し効果が確かめられたことから、森林セラピーソサエティ(http://www.fo-society.jp/)という機関では現在時点で全国に48ヶ所の「森林セラピー基地」、「森林セラピーロード」を認定しています。そこでは、健康増進やリラックスを目的としたさまざまな森林セラピープログラムが用意されており、利用者は森林ウォーキングのほかにもいろいろな健康増進プログラムを楽しむことができます。
これももちろんそのようなプログラムを受けるとより効果的ではあるでしょうが、ふつうの野山歩きでも充分に効果があるのではないかと私は思います。
病院通いに明け暮れることなく、高齢者が心身ともに健康で過ごす。これは本人の経済的負担が軽くなるだけでなく、社会的にも高齢者医療負担の軽減につながり一挙両得、いうまでもありません。この度の厚生省発表でがん、脳卒中、心臓病、糖尿病などの主な成人病に、新たに精神疾患が加えられて日本人の「五大疾病」とされましたが、野山歩きががん予防にも効果があるとなると、運動による他の心身の健康増進、成人病予防の働きとも併せ、医療費軽減への効果も大きいのではないでしょうか。どこかで触れた精神疾患―「老人性デプレッション」も吹っ飛ぶかもしれません。
さらに、野山歩きは、足腰の健康をもたらし、心身のリフレッシュに資する、それだけではありません。
究極には、単なる生理、心理的な効果を超えて、まさに「自然の山川草木」すべてに神を感じ取る日本人のDNAに眠る宗教感情がよみがえる、より深い宗教的、精神的体験にもつながるのではないかと思います。
たとえば、私たちが巨樹・巨木の前に立つとき、おのずから頭を垂れ、手を合わせたくなります。また深い森に包まれると敬虔な気持ちになります。それは何らかの神性を覚えずにはいられないからでしょう。神社や寺院も多くは森の中です。私たちにとっての「森の中」は、キリスト教徒にとっての教会や、イスラム教徒にとってのモスクに等しいといえるかもしれません。
(この項続く)]]>
『林住期という生き方』 第二章「豊穣の秋を求めて」⑥
http://forestjo.exblog.jp/17592206/
2012-07-09T17:22:06+09:00
2012-07-09T17:22:04+09:00
2012-05-28T17:43:49+09:00
jo-toyo
林住期という生き方
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・よりアクティブに自然を楽しむ
第二章では、「豊穣の秋を求めて」のタイトルのもと三つ目の提案として「ふるさとに帰ろう」のお薦めをしてきました。
もともとわれわれ東洋人は自然に親和的なDNAを持っているはずです。なかでも気候が湿潤・温和で今でも国土の三分の二が森林に覆われるなど自然豊かな国土に育まれた私たち日本人は、とりわけ自然に近しいはずです。また終戦前後に生まれた私たち、いま林住期を迎えている世代は、子どものころ遊んだ回りの環境にはまだ自然がいっぱい残っていて、その意味でも今の子どもたちなどより自然に近しいかもしれません。
とはいっても、本来そのようなDNAを持った私たちも現代の西洋文明の圧倒的な影響下にいわば「板につかない」生活を強いられてきました。また特に自然の失われた都市で永年生活してきたわれわれは、自然に疎遠になってきました。どんな現代人も、昔のアニミズム華やかなりし時代といわないまでも百年前の人々に比べると自然との交感能力ははるかに劣っているといわれます。
「風の集い」というユニークな活動をつづけている宗教社会学者の町田宗鳳広島大学教授も次のようにいっています。
「現代人の最大の弱点は、生命感覚がすっかり鈍ってしまっているところにある。だから誰しも、ときどきは山に入って、〈いのち〉の充電をする必要があるのではなかろうか」(『山の霊力』)
「ふるさと」―自然の中に入ると、このように意識するしないにかかわらず心身の健康への様々な効用があります。「ふるさとに帰ろう」のススメの最後に、「よりアクティブに自然を楽しむ」を提案しておきます。
自然の中に入り多くの生命に触れると、生命感覚が若返ります。またそこで出遭う植物、小鳥、昆虫などに興味、関心を持つことによって知識欲も湧き、脳の活性化(ボケ防止)も期待されます。また知識なども付いてくると楽しみも増えます。私自身も林住期に入って後に植物への知識も増え、著書をものすることができました。
興味・関心さえもっていただければ世界は無限に広がります。私も自然観察イベントを行なっていますが、各地でも、植物、野鳥など動物、昆虫、キノコ、・・・、様々な観察イベントが行われています。自然に興味・関心を持って知識を得て、自然を楽しむにはそうしたイベントに参加するのが、とっかかりとしては最も効果的です。私が会員になっている嬬恋軽井沢自然倶楽部(http://tsumagoi.creativekei.com/)のような自然体験団体が各地に各種あると思われますが、全国規模のイベント情報が得られるのは、たとえば、
全国森林インストラクター会(http://www.shinrin-instructor.org/)及び各県支部
自然体験推進協議会(http://www.cone.ne.jp/)
日本自然保護協会(http://www.nacsj.or.jp/)
などがあります。
第二章の最後に閑話休題的に、観察会などで自然に興味・関心をいっそう持っていただくための一端として私がする一八番(おはこ)の話二題を紹介しておきましょう。拙著『植物そぞろ歩き』(まつやま書房)には、この種の話を満載しています。
・虹は、何色(なんしょく)か?
「皆さんが見ているのとまったくちがう森の姿を、私は見ているのですよ」
「・・・・?」
「○○さん、虹は何色か、知っていますか?」
「7色でしょ・・・!?」 何を聞くの、といった顔をします。
「そう、7色ですよね。ところが虹を7色で見ているのは、日本人だけ?なのです。英語を話す人たちは6色でしか見ていません。藍色がないのです。それだけではありません。この地球上には、虹を3色や2色でしか見ていない人たちもいるんですよ。ローデシアのショナ語では3色、リベリアのバッサ語では2色だといいます」
「?」
「虹の色を表現する言葉が、それだけしかないから、その色にしか見えないんです」
嘘のような話ですが、ほんとうなのです。虹は、赤から紫まで連続した色のスペクトルをもっています。それを、どう切りわけて何色で表現するかは、言葉によるほかはないのです。
これは、話しだせば、記号論といったむずかしいことになるのですが、そこまでは踏みこみません。
この虹の話を、森にあてはめるとどうなるでしょうか?
木や草の名前を知らなければ、森は、ノッペラボウの植物のかたまり、緑のかたまりにしか見えないのです。バッサ語でも、まだ虹を2色に色わけしますが、2色にわける言葉もなければ、ただの虹、ノッペラボウな色のかたまりにしか見えないのです。 逆にいえば、木や草の名前を知れば知るほど、それだけ森が多彩に、木々草々が個性あざやかに見えてくるのです。
私の体験からも、それは確かです。
森林インストラクターになった今では、草木の名前を多く知りましたから、木や草のこまかい違いが見えてきたのです。まだそれらを知らなかったころ、なおさら子供のときなどは、「みんな木、みんな草、ただの緑」でした。今でも子供のころ遊んだ山野にいくと、「へえーっ、この木も、この草も、ここにあったんだ!」の驚きの連続です。
これが、最初の「皆さんが見ているのと、まったくちがう森の姿を、私は見ているのですよ」の発言の真意なのです。
皆さんも、木や草に関心をもち、名前を知れば、それだけ森がゆたかに、色あざやかに見えてきますよ。
がんらい、日本人は、ゆたかな自然に恵まれていたおかげで自然のこまかい違い、たとえば色の微妙なニュアンスの違いを見わけてきました。虹を七色に見るのものその一例でしょう。
日本語ほどこまやかに色の違いを表現する言葉をもっている言語はないといいます。たとえば、「緑」でも、浅葱色、萌葱色、若草色、若葉色、裏葉色、柳色、鶯色、若竹色、老竹色、山葵色、抹茶色、常盤緑、・・・。日本がゆたかな、変化にとんだ自然に恵まれていたからこそ、人々が、おのずと自然の微妙な色合いを楽しむ文化をはぐくんできた所産なのです。 ゆたかな自然とそれを表現する言語や文化をもっているのですから、私たちもその恩恵を享受しつづけたいものです。
・非凡なる凡木、アカメガシワ
山野でも街なかでもどこでも見られる普通の木・アカメガシワについてウンチクを垂れてみましょう。
新芽が赤くてそれなりに目にもつきますが、あまりあり過ぎてか逆に注目をされない木ですが、なかなかどうして、語るべきウンチクに溢れています。「非凡なる凡人」になぞらえていえば、「非凡なる凡木」。
「カシワ」といいながら、ブナ科ではなくトウダイグサ科という耳慣れない科の落葉高木。ウンチクは、その葉のつけ方です。
まず、葉柄(枝と葉をつないでいる柄)をどこまでも?伸ばすという芸当です。写真をよく見てください。下の葉ほど中心から離れて長く突き出ています。そうです下の葉ほど葉柄を長く伸ばすのです。 ふつうの植物では、葉柄の長さはだいたいその種で決まっています。
たとえば、コナラとミズナラの見分け方のコツは、葉柄の長さです。1センチくらいあればコナラ、ほとんど無ければミズナラというように。
ところが、このアカメガシワは、1本の木でもさまざまな長さの葉柄があります。私は30センチを超えるものまで確かめています。
なぜ、このように長さを変えるか?
もうお解りでしょう。陽光をできるだけたくさん集めるためです。その理由は、くどくどいうまでもなく、上の写真をみれば皆さんも理解できるでしょう。どの葉も光を受けています。
陽光を集める芸当は、それだけではありません。 葉を、144度の角度で次々に出していくという幾何学を考え出しているのです。
同じところのすぐ上に次の葉を出したのでは、下の葉は上の葉の日陰になります。そのために144度ずつずらすという手を編み出したのです。葉が重ならないで、見事にあいだあいだに入っています。 2回転して5枚上の葉がようやく真上に来ます(それも葉柄の長さが違いますから重なりません)。これも先の写真を見れば、それがいかに陽光を集めるのに有効か、理解できるでしょう。
皆さんは、このアカメガシワが編み出した高度な幾何学が解りますか?
360度×2÷5=144度
すべては、できるだけたくさん陽光を集めてすばやく生長するために生み出した知恵と芸当です。]]>
『林住期という生き方』 第三章「自然との共生的な生き方を目指して」①
http://forestjo.exblog.jp/17607656/
2012-07-09T17:21:34+09:00
2012-07-09T17:21:32+09:00
2012-06-01T19:22:29+09:00
jo-toyo
林住期という生き方
はじめにも言いましたように、『林住期という生き方』というタイトルで原稿を書き、出版を目指しましたが、どの出版社も引き受けてくれません。
ということで、このブログで電子出版。これから第三章です。
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第二章では「人生第三ステージ林住期―豊穣の『秋』を求めて」と題して考えてきましたが、続いて章を変えて、本書の二つ目の目的―地球温暖化や原発事故など新しい地球、社会環境下での、いわば「文明の転換期」を迎えての新しいライフスタイルを考えて見ましょう。先に挙げた林住期の生き方の四つ目「環境にやさしく生きる」の提案です。
やや重い話になるかもしれません。
第三章 自然との共生的なライフスタイルを求めて―かわいい孫・ひ孫のために環境問題を考える―
一万年前に、それまでの狩猟採取から農耕牧畜への転換により始まった定住生活によって人類は「文明」を獲得しました。狩猟採取という太陽エネルギーの自然な恵みに完全に則った生態系の一員としての存在から、はみ出したのです。それまでの地球の物質とエネルギーの流れを変えたからです。自然の中から作物や家畜に適した種を選び出し、改良し、肥料や飼料を与えて人為的にその流れのスピードを変えました。ですが、それはまだ太陽エネルギーのフローに多少のバイパスを作るくらいでした。基本的には、太陽エネルギーの流れの範囲内にあったのです。
しかし200余年前からは産業革命を契機に石炭・石油などストック化石燃料を使用し始め、人類文明の内部に駆動力をもちました。そして、化石燃料の使用も資源枯渇問題や地球温暖化問題といった懸念が出始めると、ついには原子力エネルギーにも手を染めました。
そして、人類社会は無限の繁栄を手に入れるかに見えました。地球人口の爆発が、それを表しています。
一万年前の農耕牧畜の開始で一度大幅に増加し、その後数千年にわたって安定して
きましたが、産業革命以降に世界人口が幾何級数的に増え現在が70億人、2050年には93億人に達すると予測されています。
しかし無限に繁栄できるかに見えた人類も、このところ急速に悲観論が支配し始めています。このまま地球人口の爆発が続けば食糧や水は足りるのか?
このまま化石燃料を使い続けると地球温暖化はどうなる?
このまま自然破壊・汚染を続けていて生態系サービスを受け続けることができるか?
それに加えて、最近の、地球温暖化の切り札といわれた原子力エネルギー利用は人類が使える技術なのか? 放射能の汚染は防げるのか?
さまざまな厄介な環境問題が押し寄せてきています。
これまでこうした環境問題は往々にして総論賛成各論反対、タテマエ、さらにいえば他人事で終わる傾向がありました。
ここでは、林住期を迎えた私たちにとって問題を身近に、より引きつけるために「かわいい孫、ひ孫のために環境問題を考える」と題して、考えて見ましょう。
・孫たちの分け前を先取りしていないか―「持続的な発展(開発)」ということ
第一線を退かれ「林住期」を迎えられた、迎えられる多くの方も、そろそろお孫さんを持ち始めているのではないでしょうか。お孫さんと遊びながら、ふとこんな心配が心をよぎることはないでしょうか。
「孫たちが大人になる頃、この地球はどうなっているのだろうか、安心してゆたかに暮らしていけるのだろうか」
地球環境問題にからんで、いま「地球の持続可能性」ということがさかんにいわれています。人々がゆたかに暮らしていくためには、経済的発展が必要です。しかし、皆さんも心のどこかで心配されているように、今のままの経済発展が続いていくと、とてもじゃないですが、地球は持ちそうもありません。中国やインドが、アメリカや日本のように経済発展したら・・・!?
もっとも大きいのは、石油をはじめとするさまざまな資源の枯渇、それよりも経済的発展がもたらす二酸化炭素排出増加による地球温暖化など環境破壊。自然破壊・汚染がもたらす生態系の劣化、それに加えて、現在のホットニュースとしてこの度の福島原発事故を契機に放射能汚染や電力不足という問題が大きく姿を現してきました。
そうした深刻な資源や環境問題から、このところ「持続可能な発展(開発)」ということが、キーワードになりつつあります。それは、国連地球サミット(リオ・デ・ジャネイロ)でも真剣に議論され、次のように定義されました。
「将来世代がそのニーズを満たす能力をそこなうことなく現世代のニーズを満たす発展(開発)」
やさしくいいますと、「私たち世代がゆたかな生活を続けていくことも必要だが、孫たち以降の世代もゆたかに暮らしていけるよう地球を守っていかなければならない」ということです。
しかし、先にもいうように、今のままの発展を続けていくと、地球がもたないのではないかと、みんなが心配しています。
つまり、これを裏返していうと、今の私たち世代の豊かな生活は、孫たちがゆたかに暮らしていく将来世代の分け前を現世代が奪っているということです。もっとわかりやすくいうと、私たち世代のゆたかな生活は、孫たち以降の世代がほんらい受けとるはずの分け前を奪って成り立っている、その犠牲の上になりたっているのではないかということです。
私たちがゆたかな生活を謳歌していることが、資源を枯渇させ、地球温暖化など環境悪化をもたらしているからです。化石燃料など資源を枯渇させることが、孫たちの分け前を奪っているということは解りやすいかもしれませんが、地球温暖化など環境を壊すということも、それは、とりもなおさず、地球がほんらい持っている環境修復能力を奪うということです。地球は、少しの環境破壊は修復するキャパシティを持っていますが、それを超える破壊は修復不可能なのです。大気中の炭酸ガス(CO2)の増加による地球温暖化が、その最たるものです。
この地球がもたない、というのは、具体的には資源問題と環境問題に現れてきますが、問題が大きすぎますので、ここでは私たち個人により身近な環境問題に絞って考えて見ましょう。たとえば化石資源もその枯渇より多使用による地球温暖化の方がよりクリティカルだといわれています。
地球環境問題は、砂漠化、オゾン層の破壊、地球温暖化、熱帯林の減少、野生生物種の減少、海洋汚染、有害廃棄物(環境ホルモン)など多岐にわたりますが、この中でも地球温暖化、生物多様性の減少がもっとも大きな環境問題だといわれています。それは、あらゆる環境問題が関連し合って最終的にはこの二つに帰結するからです。
国連地球サミットでもこの二つが中心議題とされ、「生物多様性条約」と「気候変動枠組み条約」が締結されました。
「気候変動枠組み条約」はいうまでもなく、地球温暖化の問題ですが、「生物多様性」が大問題なのは、それが自然生態系を支えているからです。自然生態系の健全さは、多様な生物種の健全さと同義語なのです。
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『林住期という生き方』 第三章「自然との共生的な生き方を目指して」②
http://forestjo.exblog.jp/17650777/
2012-07-09T17:20:52+09:00
2012-07-09T17:20:52+09:00
2012-06-13T13:41:33+09:00
jo-toyo
林住期という生き方
旅行などでしばらく間隔が空きましたが、第三章その②です。
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・自然生態系が健全であって、孫、ひ孫たちもようやく暮らしていける
私たちが生きていく上で、もっとも大切なものは何でしょうか?
お金?
そうかもしれませんが、それはほかの条件がじゅうぶんに満たされていての話です。「お金よりも健康」、よくいわれることですが、それよりももっと「命あってのモノダネ」です。
その命を根底で支えているものは、いうまでもなく食料、空気、水。それらが、いま急速に怪しくなってきています。
食料でみれば、70億人になんなんとする地球人口増大、開発や地球温暖化による砂漠化からくる耕地面積の縮小、また石油代替や地球温暖化防止のためのバイオ燃料化による穀物消費、これらがあいまって穀物をはじめとした食料価格が急騰をしています。
次いで空気。大気中の二酸化炭素濃度の上昇、酸性雨をもたらす窒素酸化物や硫黄酸化物による大気汚染、酸素をつくり出し空気を清浄化する森林の減少。大気さえ怪しくなってきています。
それにもまして今世紀大問題になってくるのが、水不足。地球は7割が海で「水の惑星」といわれますが、実際に私たちが生きていく上で使える水はあまり多くありません。私たちが命をつないでいくために使える淡水は、なんと水の中で0.01%。水不足から、今世紀は、水を争っての世界中の戦いになるのではないかといわれています。水不足に悩む中国の資本が日本国土の水源を買い占めるといった動きも出ています。
これら命を支える食料、空気、水を作り出しているのが自然生態系なのです。
いま私たちの身の回りは溢れる工業製品で取り囲まれていて、普段はあまり気がつきませんが、このように命を支えるもっとも大事なものは、すべて自然生態系が黙って生み出してくれているものなのです。
ある生態学者グループが地球上の森林、海洋、湖沼などの生態系がもたらしてくれる無償の恩恵(生態系サービスという)を計算して、イギリスの権威ある科学雑誌「ネイチャー」に発表しました(1992年)。なんとその額は、一年間に33兆ドル。それは、世界中の国の国民総生産の総額をはるかに超えます。つまりは、工業生産など人間のあらゆる経済活動をはるかに超える値打ちがあるというのです。
・金の卵を生むニワトリも気息奄々
右の表が、その内訳です。 先の食料、空気、水に関してみれば、食料生産が1兆3860億ドル、水が「水調整」「水の供給」併せて2兆8070億ドル、空気が「大気調整」「気候調整」併せて2兆250億ドルです。食料生産が意外に少ないように思いますが、実際には「土壌の生成」「栄養塩の循環」なども食料生産に関連することです。それらを合計すると18兆5740億ドル。
それ以外の項目をみても、私たちが生きていく上で直接的、間接的に大切なものばかりです。「文化」や「レクリエーション」といった精神的な領域にさえ関係しています。
ある本では、次のようにいっています(鷲谷いづみ『生態系を蘇らせる』NHKブックス)。
「人間にとって、生態系は『金の卵を産むニワトリ』に喩えることができる。適正な範囲での利用であれば、持続的にさまざまな資源、財、サービスなどを提供してくれるからである。金の卵とは、食料であったり、薬であったり、建材や衣料の材料であったり、心に感動をよび起こす美しい風景であったり、心を慰める野生の動植物たちとのふれあいであったり、空気や水を浄化する働きであったり、土砂流出の抑制であったり、作物を実らせる受粉作用であったりと、あげていけばきりがないほどの多様な自然の恵みのことである。私たちがどれほどの多くの恵みを授かっているかは、生態系が健全に機能し、それらの恵みが過不足なく提供されているときは意識するのがむつかしい。しかし、ニワトリが衰弱して金の卵が産めなくなってくると、私たちは否応なくその有りがたさに気づかされることになる」
その自然生態系が、人類の勝手な振る舞いによって、おそろしい勢いで劣化していっています。人類は、「金の卵を生むニワトリ」を殺そうとしているのです。
「生物多様性条約」が締結されたのは1992年ですが、それから20年経っているにもかかわらず、まだまだ世界中で生態系の劣化が進んでいます。熱帯林の伐採、海・湖沼の埋め立て、砂漠化などによる貴重な生態系そのものの消失に加え、年々増える絶滅危惧種。日本だけでも3千余種の野生生物が絶滅を危惧され、それが支える生態系が危うくなってきています。
孫、ひ孫たちの時代にニワトリは元気でいるのでしょうか。]]>
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