歳をとったせいか多少の宗教心も出てきて、このところ暇に任せて宗教本を読むこともある。
それで面白いと思ったのは、仏教が最新の科学と非常に近しいということだ。
私が仏教の教義を理解しえたとも思わないが、かじりで理解したことで書いてみる。
仏教の教義の根本は、「一切空」「無自性空(むじしょうくう)」だということは、ほとんどの人は常識的に理解しているのではないだろうか。存在には一切確かなものはなく変転している、あるいは有と無が一体となっている。「色即是空」、生と死でさえ「生死一如(しょうじいちにょ)」。
これは実に最新の科学の宇宙観と一致している。この確かな存在と見える宇宙でさえ、変転の一つの相でしかなく、確かなものではない。ご承知のように今日の宇宙物理学では、宇宙は140億年足らず前にビッグバンで誕生し、いまもすごいスピードで膨張している。そして膨張が止まれば収縮して死を迎えるか、あるいは無限に膨張すれば冷却を続け「熱的死」を迎えると考えられている。
宇宙が死を迎えたその後は、またビッグバンからの繰り返しを永遠に続けるのだろうか?
我々の住むこの太陽系も、約46億年前に誕生し、あと数十億年すると死を迎えるという。他の天体も誕生と死を繰り返している。今も新しい星が生まれたり死んだりしている。
何一つ確かなものはないのだ。
仏教の存在論を「縁起性(えんぎしょう)」というが、存在一切は、因と縁の結合によって起こっている。それゆえ「因」と「縁」の結合がなくなれば存在そのものがなくなる。物そのものには不変の自性というものはない。
現代の宇宙物理学と相通じていないか?
もう一つ、この世のしくみの洞察に富むのが、「仏様」の見立てだ。
仏教で最もありがたい、中心的な仏様の一つが「阿弥陀如来」であり、あるいは「大日如来」である。日本の仏像の約半分は「阿弥陀如来」といわれ、密教の胎蔵曼荼羅の中心に置かれるのが「大日如来」。
「大日如来」は文字通り「太陽の仏様」のことであり、「阿弥陀如来」は、別名を「無量光仏」「不可思議光仏」「尽十方無碍光如来」ともいう。まさに「太陽」のイメージだ。
東京大仏も「阿弥陀如来」、ついでにいえば、鎌倉大仏も。 これはもうこのブログでも何度か取り上げているが、私たちヒトを含めて生きとし生けるものはすべて太陽のお蔭で生きている。昼間の明るさをもたらしてくれるのも太陽であり、生きるのに必要な暖かさの気温も太陽のお蔭だ。
それだけではない。あらゆる生き物の生命を生み出し、支えてくれているのも太陽だ(たとえば、
https://forestjo.exblog.jp/1852508/ など)。
その縁起の始めは、植物の「光合成」。
太陽の光エネルギーを使って植物の葉っぱが、水と二酸化炭素(CO
2)から有機物(炭水化物、タンパク質など生き物の体を作り、活動のエネルギーをもたらす物質)を作り出す。植物がいなければ、それよりも前に太陽がなければ、地球上の命はどれ一つとして存在しない。
一部仏教宗派では「阿弥陀如来」を「親様」と呼ぶようだが、まさに太陽は地球上のあらゆる生き物にとって無限の恵みを与えてくれる、慈愛に満ちた「親様」なのだ。
そして生物の生命を支えてきた物質も輪廻を繰り返す。
これも新しい生態学で、植物を生産者、動物を消費者、菌類などを分解者というが、生産者の植物が作った有機物は消費者の動物(植物も自分で作った有機物を使って生きている、その意味では消費者でもある)を経由し、やがてはその死のあとに菌類などの分解者によって分解(「光合成」の合成とは逆に有機物が元の無機物=元素に還元)され、再び次の生命を支える有機物のもととなる無機物質となって輪廻していく。生産者→消費者→分解者→再び生産者の無限のサイクルが回っていく。
ここにも仏教の「縁起性」に近い捉え方が見られる。