仏教や神道などの多神教、汎神教が「森林の宗教」といわれ、キリスト教やイスラム教などの一神教が「砂漠の宗教」といわれるのは、なぜでしょうか?
『森林の思考・砂漠の思考』(鈴木秀夫著 NHKブックス)では次のようにいいます。
「
多神教の世界では、山川草木、日月旦辰、いろいろなものが神になりうる。草木が繁茂し、多数の動物が棲息する湿潤地帯では、たくさんの神が考えられたが、乾燥が進むにつれて、森林が消滅し、草原が後退していくと、神々もまた消滅せざるを得ない。・・・そういう状況で、最高神が唯一神に移行するのは、あまりにも当然ということになろう」p66
また、別のいい方として
「
砂漠では、ある一つの道が水場に至る道であるか否かどちらかに決断しなければならない。その道が生への道であると判断することは、他の道は滅への道であると判断することである。それに対して、森林には、生が満ちている。生への道か滅への道か思いわずらう必要がない。人間がこれだと思った道から迷うことによって、かえって桃源郷を発見する」p83
こうした森林と砂漠地帯の風土の違いが、万物に神が宿るとする「森林の宗教」と、天上に唯一神を見出す「砂漠の宗教」につながっているというのは、わかる気がしますね。
この見方からすれば、世界でも類まれな温暖湿潤で豊かな森の広がる日本が汎(多)神教の世界であることは明瞭でしょう。事実、日本ではたいがいの家に仏壇と神棚があり、神社・仏閣をないまぜて七福神といってはしご初詣する日本人は、どう考えても一神教の世界にはいない。
そして、先の鈴木著によると、日本はキリスト教が布教しにくい国だといいます。日本ではキリスト教徒は国民の1%以下、隣の韓国では5~6%になるという。またその理由を、日本と韓国の風土の違いに求めています。韓国は大陸の陸続きであり、乾燥の度合いも強い。まさに湿潤な日本の風土ではぐくまれた日本人の強い汎神教的な心情が、キリスト教の一神教になじみにくいのではないかといいます。
そのキリスト教になじみにくい日本でも、この時期、巷にはクリスマスツリーの電飾が輝き、ジングルベルが鳴る。なぜそうなのか、と私はずっと考えていましたが、なるほど、日本人の汎神教を背景に考えてみると合点がいく。キリスト教徒ではなくても、クリスマスを祝うのは、七福神を巡るのと同じでなんら変わりはない。
しかし、一方、本当のキリスト教徒やイスラム教徒などの厳格な一神教の人々にはどう見えるのでしょうか。その人たちからみれば、なんとも奇妙にうつるのではないでしょうか。日本人の多くが信仰していると思える仏教の始祖・お釈迦様の誕生日であるお花祭り(4月8日)ではなく、なぜキリスト教の始祖の誕生日(12月25日)を盛大に祝うのだろうか?!
もう一つ、唐突な話になりますが、テロの背景にもこの問題が潜んでいる? 一神教が他宗教を異教として排斥しがちであることは、まさにその
一神教的性格からすればありうることですが、クリスマスがキリスト教徒でもない地域、人々の間でさえ盛大に祝われるこの
一種のキリスト教の文化的グローバル・スタンダード化、イスラム教徒からすれば、そこに苛立たしさ、疎外感?を感じることもありうるのではないでしょうか。
明日から、愛媛の実家の幻の山(スギ・ヒノキ林)を探しに行ってきます。18日まで。